メインメニュー

自分リンク

 バーボン植田のカリテプリ

 小さく建てて大きく住まう

 自産自消の野菜づくり

 バーボン/Tシャツ/ネクタイ

 農家レストラン nicomi831

FAQ(よくある質問と回答)

メインページ »» フランス料理を取り巻く環境

目次


やはり「ハレ」の料理なのか
日本にフランス料理が入ってきた当初は、フランス料理のてっぺん、つまりピラミッドの頂点のような料理やスタイルが先でした。したがって、ホテルの宴会や結婚式といった特別の時にしか食べられないような「ハレ」の食事であったわけです。その当時の料理内容が今と比べてはたしてそんなに高級だったかどうかは別として、とにかく滅多に食べられない料理だったのです。

その後、フランスで修業してきた料理人たちが、日本で見聞きしていたのとは全く違うフランス料理に触れて帰ってきてからは、料理の内容がガラッと変わりました。フランスの国自体にも新しい料理の風が吹いていたこともありましたが、それでもまだまだフランス料理=高級なハレの料理でした。

ところが、さらに若い世代の人たちがフランス修業から帰国し、日本のマスコミもフランスの庶民の食生活を伝えるようになると、ビストロという普段着のレストランが相継いで登場しました。ですから今日では、時と場合、予算などに応じてフランス料理店を選ぶことができるようになりました。つまり、ピラミッドの底辺に近づいてきたのです。

しかし、そのような現象は東京をはじめとした大都会だけで、レストランの絶対数の少ない地方ではまだまだハレの食事をするところなのです。東京ではビストロのようなしつらえであっても、食べに来る人たちにとっては改まったハレなのです。

単に料金の問題だけではなく、日本人のどこかにハレであってほしい思いもあるような気がします。「ラーメンでも食べに行こうよ」というのと「ウナギを食べよう」とか「寿司を食べよう」というのとでは、ご馳走を期待する感覚が違うのと同じだと思います。

フランス料理にもラーメンのような気軽なものはたくさんあります。豚の腸に同じく腸を詰めたアンデュイエットや魚をグチャグチャに煮込んだスープ、京都のおばんざいのような野菜の煮込み、内臓の煮込みなどなど・・・。しかし、そのようなものを地方に持って行っても「ナニ、これ?」で終わってしまいます。

どんなに質素な食事でもワインとチーズとデザートが付くフランス料理は、一汁一菜が食生活の歴史にある日本人には、お酒?、チーズ?、デザート?なんてご馳走のフルコースなのです。したがって、「フランス料理を食べに行こうよ」と言うときは、ハレのご馳走を改まって食べるという意識であり、そうありたいと願う人がほとんどだということです。
やはり社用族頼りなのか
食を文化として自分の身に付けようと考えたなら、人の財布を当てにしないことです。公務員の接待の限度額が\\5,000と決められたご時世では、会社の費用で高級料亭やレストランを使うようなこともだんだんなくなってきましたが、人の財布だからと気兼ねをせずに使ってくれた人たちが減るということはレストランにとっては大変な打撃です。

しかし、身銭を切って食べる人が増えてきたときこそ、料理人としては勝負どきです。かつて高級レストランの常連客だった高級官僚に、サービスの人が「本日はおいしいトリュフが入っておりますので、オードヴルにはフォワグラと合わせて・・・・」と言うと「ああ、そんなのはあとでいい、まずステーキだ、ステーキ!」と叫んだとか・・・。ウソのような本当の話がありますが、そこで1本十何万もするようなワインを注文してくれたとしても、本当に有り難いことなのでしょうか。

それよりも、自分の作る料理を気に入って何度も来てくれる人たちが払う相応の金額は、あぶく銭とは違った喜びがあるはずです。その人たちのために料理人は努力し、自分を理解してもらい、客は分相応の喜びと満足感に浸るのです。それこそが正しい食文化です。
飲食業界は労働基準法の適用外?
労働時間が長くてきついという理由で、せっかく料理人を夢見た若者が辞めていくケースは今日では多々あります。近代経営が進んだ今日でも、料理人になるということは、時間では測りきれないものです。労働基準 局に駆け込む前に自分が脱落者として抜けていく実感を持つことでしょう。よほどのことがない限り、労働時間で駆け込むようなことはありません。

テレビや雑誌などで華やかに取り挙げられている有名シェフたちにも厳しい修業の時代はありました。調理器具は今のように機械化されておらず、ガスの代わりに石炭ストーブ、夏は50℃にもなる調理場の中でした。それでも料理人を目指してみんな頑張りました。その時代、労働時間のことを考えた人がいたでしょうか。

頂点に立った達成感は、今までの苦労を考えると素晴らしいものです。そのような人たちが私たちにおいしいものを作ってくれるのです。
イタリア料理に押されていないか
新聞や雑誌で取り上げられているような、「フランス料理衰退か・・・」ということは決してありません。フランス料理の好きな自分が身びいきで言うのではありません。そもそも日本におけるイタリア料理の存在が、パスタやピッツアといったカジュアルな感覚から広まっていることから、経営者サイドとしてもあまり資本をかけないで店を開店できるということで、非常に安易に営業展開をしていると思います。

それと、イタリア料理というのはそもそも庶民の料理から発展したもので、料理法もフランス料理に比べると素材の味を生かしたシンプルなものが多いのです。したがって、原価も低く利益率も高いのでしょう。そこに経営者が目を付ける→イタリア料理店が乱立する→マスコミが「フレンチに代わって・・・」と取り挙げる→消費者がそれによって影響される。という、いかにも流行に敏感(?)な、言ってみれば自分に文化を持たない現代の日本人の象徴的な食文化を作り上げています。

ホテルのフランス料理が、不景気によりはかばかしくないからという理由で、イタリア料理に変わるという話題を耳にするたびに非常に腹立たしく思うのは私だけでしょうか。きちんとおいしいものを作る努力をしたのでしょうか。サービスや店の雰囲気、トータルとしての心地よいレストラン作りを心がけたのでしょうか。

いつの時代にも、景気に関係なく本当においしいものにお金を払う人はおります。また、安価でもおいしければ人は来ます。「食」を商売としてだけでなく、文化として捉える姿勢が経営者側にも消費者側にもあってほしいものです。そうでなければ、経済や時代に流された、流行だけで終わってしまうことになります。

マスコミが隆盛と言っているイタリア料理店でさえ、コンセプトがあやふやでおいしくない店はバタバタと潰れています。それと、そのように食文化を報道しなくてはならないマスコミの人たちの知識や認識のなさにはあきれます。料理のことも、イタリアやフランスの国や文化のことも全く知らない人が多いのです。

高級料理店を取材している記者や編集者自身の食生活の貧困さにはびっくりさせられます。コンビニやファーストフードで手軽に食事を済ませ、化学調味料の味に慣れ、料理を作らなくなった母親の元で暮らしていれば、それも仕方がないのでしょうか。話はとんでもないところまで飛びましたが、少なくとも、人に食を伝える立場にある人たちは、きちんと身銭を切って自国と異国の食文化を自分のものにしていく努力を忘れないで下さい。

それと、イタリア料理とフランス料理の区別・・・ですが、これはなかなか難しいのです。まず、フランスでもイタリア国境に近い南仏では、フランス料理としながらもパスタやトマト系の料理があります。これはどこの国でも同じだと思います。気候風土に合わせた食材があるのは当然ですから。

ただ、今日のフランス料理は、特別な階級の貴族の料理から発展したもので、それに各地方の郷土料理とが絡み合って成り立っています。しかも、オーギュスト・エスコフィエという料理人の神様とも言われている人が、今から約100年前にフィレアス・ジルベールという人とともに、貴族の料理や郷土料理を全部まとめて素材別、調理法別に、実に合理的にまとめた「ル・ギッド・キュリネール=料理の手引き」という本を書き、これを基に世界中の料理人がフランス料理を学んでいるのです。

それに比べイタリア料理は、かつてローマ帝国が栄え、貴族たちが世界に先駆けておいしいものを食べていたとはいえ、いまだに各地方ごとに料理の作り方から素材、考え方などが点在したままで、それをまとめてイタリア料理と唱える人が出てこないのが現状です。したがって、ローマ風、ナポリ風、ミラノ風といったぐあいに料理が成り立っています。そして庶民の料理=イタリア料理という考え方もあります。

もちろん、イタリアにも庶民がなかなか行けない高級レストランがあります。ミシュランが三ツ星を付けた店などがそうですが、それらのほとんどは、料理人がフランスで修業し、フランス料理の考え方のもとで料理を作っています。ですから、先にも述べたような、国と国が隣り合っていなくても、イタリアのど真ん中にフランス風のイタリア料理があるのです。日本でもフランス料理から転向したイタリア料理人は多いのです。むしろそういう人のほうがおいしいイタリア料理を作ることができるのです。

なぜかというと、先にも説明したように、フランス料理は貴族のためにいかに旨い料理を作るかということを宮廷料理人たちが考え抜いて作ったものであり、流通の不便な時代に鮮度の落ちた素材をいかにおいしく仕立てるかなどが、調理技術の発達にも貢献したということなのです。 今日のイタリア料理ブームの先駆けとなった「カピトリーノ」の吉川氏は、「イタリア料理というのは庶民の料理なのだから、こうすればもっとおいしいのにと思う手前で止めておく、そして価格もいつでも食べられる安価なものにする」のがイタリアンレストランの姿勢だともおっしゃいます。旨いとかまずいとかの比較ではなく、それぞれの国の食文化を理解するということで、私はとても興味深いご意見と受け取りました。

さらに余談ですが・・・日本にける宮中晩餐会や国賓を招いてのディナー、また、諸外国でもそのような正餐のほとんどがフランス料理というのも、フランス料理がいかに世界の食の中心的存在であるかが分かります。また、逆に、イタリア料理のカルパッチョや日本の刺身、醤油、焼き鳥など、諸外国の料理をいち早く取り入れるフランスの料理人に、頑固に自国の文化を主張しながらも、おいしいものを柔軟に取り入れるしたたかさをも感じます。
ガイドブックの功罪はあるか
複数の覆面審査員によって調査され、評価が決まるフランスのガイドブック「ミシュラン」は、そもそもフランスのタイヤ会社がドライブのためのガイドブックを作ろうとしてスタートしたことはご存じの方も多いでしょう。そのドライブガイドのつもりでレストランを紹介したのが今日では世界的に有名なレストランガイドブックとなったのです。

批評というものはあくまでも個人の主観に寄るところが大きいのですが、ミシュランのような複数、無記名での評価は、ある意味では正しい評価=最大公約数的評価と言えるかも知れません。フランス人のように個人の意志が確立している国民にとっては最終的には記名であろうと無記名であろうと、自分の好きな店は人が何と言おうと好きなものは好きで押し通します。話題としてはおもしろおかしく話しますが、個人の食生活にはさほど影響がないのです。

ただし、ミシュランを見て世界中から人が集まって来るとなると、経営者や料理人としては穏やかではいられません。星一つ減っただけで自殺者が出るくらいですから。

ところが、個人の意志薄弱な日本人は、誰かがこう言っていたとなるとすぐに影響されます。今から約20年余り前に、ミシュランガイドを参考にして当時のフランスを食べ廻ったフランス在住の日本人が、今日のグルメブームに先駆けてフランスのレストラン案内をその批評文とともに出版しました。その後、同じような思いを持ったフランス料理ファンのオジさんたちが集まり、フランス食べ歩きを、ガイドブックの要素を持たせながら鼎団紀行文を出版しました。さらにそのオジさんたちの二人が組んで日本のレストランガイドを、今度はかなりシビアに批評し、何年か続けて出版しました。

そうなると日本のフランス料理レストランは、大騒ぎになりました。なぜならば、自分の意見を持たない国民性の日本人が、ブームになり始めたフランス料理店にそのガイドブックを見てどっと押し寄せたり、まったく行かなかったりしたのですから・・・。しかも、二人の名が明らかにされた批評でしたので、個人攻撃もあったり、逆に神様のように崇拝されたりしました。その後、それぞれの見解の相違もあったのでしょうか、一人一人が独立して再び同じようなガイドや評論活動をしています。

そのような日本でのフランス料理店ガイドブックの経過を遠巻きに見ていた当方としては、記名式のレストラン批評とかガイドブックというものは所詮、個人の主観に寄るところが大きいので、ある程度の指針にはなっても、結果的には自分で判断するしかなく、したがって個人的にはあまり役に立たないという結論です。読み物として読む程度に考えますが、そうなると池波正太郎、開高健、丸谷才一、立原正秋などなど・・・優れた表現力で具体的に表現している作家にはかないません。優れたガイドブックとしても評価しています。

また最近では、素人(失礼な言い方で申し訳ありませんが)のフランス料理ファンがきちんとしたコンセプトを持たないまま批評をしているのがありますが、これらはあくまでもその人の食べ歩き日記であって、そのようなものをガイドとして参考にすることは感心しません。ましてやおもしろいからといって出版物にしようとするマスコミの関係者にも大きな問題があります。少し前の実に低級なオバさん同志の喧嘩を取り上げたTV番組のように、おもしろければ商売になるといったメディア側の考え方が、自分の意志や文化を持たない国民にどれだけ悪影響を与えているか、反省していただきたいのです。

一番確かな方法は、自分と似た価値観、食習慣を持つ人の意見を参考にすることです。男女の仲と同じく、食い違ったときの失望感はお金をかけているだけに大きなものです。
やっぱり現地が一番か
日本人は生来持っている器用さから、修業に行ったフランスでもかなり高く評価されます。その上勉強熱心ですからコンクールなどでも上位入賞なんてこともしょっちゅうです。しかし、本場フランス人を差し置いて優勝となるとおもしろくないので、そこには多少の駆け引きが生じるようです。かつて料理コンクールとしては歴史のある、シャンパンメーカーのテタンジェ主催のコンクールにクラブ・デ・トラントの堀田氏が日本人として初めて優勝しましたが、それ以降は誰もいません。

そこへいくとソムリエコンクールはずいぶん開かれていますね。田崎氏をはじめとして、優秀な日本人が世界にはばたいています。開かれているというよりは、料理と酒とでは創造、味覚、プレゼンテーションなどが根本的に同じにはならないのでしょう。ソムリエの世界は、ワインや酒の知識とサービスに優れた者が洋の東西を問わずに活躍できるということでしょう。

多少の思惑があっても、とにかくそのようにコンクールに優勝するような料理人を輩出できない日本では、フランス料理は現地フランスの方がおいしいという論理は成り立ちません。フランス料理というフィールドの大きさが まったく異なるからです。

つまり、日本には、フランス料理、中国料理、イタリア料理、ベトナム、タイ、メキシコ、韓国、スペイン・・・と、ありとあらゆる世界の料理が存在します。そしてそれぞれにそこそこの数しかありませんので、その国の料理を網羅しているわけではありません。そうなると、それぞれの国に行って日本にまだ紹介されていない料理に出会い、それがことのほかおいしかったら、「やっぱり現地が一番だよ」と言って帰ってくるでしょう。また、日本で食べたことのある料理でも、絶対数の多い中で競っていれば、おいしいものも多いということです。食べる側も慣れていますから。

したがって、料理人の腕が悪いのでもなく、素材が違うからでもなく(今日では昔とは違い、ほとんどの素材が日本で入手可能です)、欲張っていろいろな国の料理を欲しがるから、一つの国の料理が味、すべてにおいて淘汰されていないということです。


投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。