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日本のフランス料理の歴史4 北村重威と「築地精養軒」

長崎に続き、神戸、横浜が次々に開港します。そこの外国人居留地に役人や商社の人が使用するホテルも建ち(横浜のグランドホテル、プレザントホテル、オリエンタルホテル、神戸の兵庫ホテルなど)、そこで働く日本人料理人は、西洋料理の技術を着々と身に付けていきました。

明治維新後、東京遷都に伴い、訪れた外国の要人を泊めるホテルや、もてなす西洋料理店は東京にはまだありませんでした。当時、岩倉具視の側要人であった北村重威53歳は、岩倉の欧米視察同行が年齢制限のために叶わなかったことと、首都東京にホテルや西洋料理店がないことを「国の恥」として受け止めていたことなどから、一転して洋食店とホテル経営に乗り出すことになりました。そして、明治5年、1872年、その後のわが国の西洋料理界に大きな影響力を及ぼすもととなった、「築地精養軒」を創設しました。

その後、上野公園の開設とともに「上野精養軒」も開かれ、両精養軒では、開業当時から、フランス人チャリヘスを料理顧問に置くなど、本格的なフランス料理への取り組みが見られました。初代料理長の西尾益吉、続いて精養軒の黄金時代を築いた鈴本敏雄、そしてそれぞれの弟子である秋山徳蔵、関塚喜平と、日本の西洋料理史上、偉大なる料理人が次々と生まれていきました。